エモ・ポップの新たな名盤 Turnover『Peripheral Vision』(2015年作品)

少しずつ荒廃しつつあるエモという音楽。その一方で僕も大好きなバンド、セイオシンコープランドが再結成したりと、あの頃のエモがまた盛り上がってきたという印象もある。2014年に再始動したコープランドは、新作もリリースしツアーも回っている。

エモというジャンルにもスタイルは多様で、終始スクリームのハードコア勢も入れば、美しいピアノやギターに爽やかなボーカルが特徴の「エモ・ポップ」というスタイルもある。前述のコープランドCopeland)やダフニー・ラヴズ・ダービー(Daphne Loves Derby)、後期のザ・ゲット・アップ・キッズThe Get Up Kids)などの音楽がその代表で、とにかくメロディーが秀逸なのである。

2009年、米ヴァージニア州で結成されたターンオーバー(Turnover)は、現在も活動するエモ・ポップにジャンル分けされるバンド。昨年にRun For Coverからリリースしたアルバム『Peripheral Vision』がとても最高です。『Magnolia』は、もっとハードコアで疾走感があったのですが、今作はポップでスローな内容に。他のいわゆるポスト・ハードコア勢に比べれば疾走感も、感情の乾きや叫びもない平穏な音楽だけれども、哀愁漂うその世界観は本当に素晴らしい。2011年デビューのまだキャリアの浅いバンドとは思えない、安定感です。前作

1曲目の「Cutting My Fingers Off」からいきなり神曲見参で、アルバム通して全体的にアンビエントなギター、ボーカルが浮遊感があっていい。2曲目からの「New Scream」も「Humming」もそのまま最高だし、もうアルバム聴き終わるまでキリがない良い曲ばっかりです。ぜひこの初秋に聴いてほしい青春アルバムです。

Turnover -  Peripheral Vision (2015).jpg
出典:Amazon

Tracklist

1. Cutting My Fingers Off
2. New Scream
3. Humming
4. Hello Euphoria
5. Dizzy On the Comedown
6. Diazepam
7. Like Slow Disappearing
8. Take My Head
9. Threshold
10. I Would Hate You If I Could
11. Intrapersonal

 

パリの夜、ニューヨークの朝──コリーヌ・ベイリー・レイの帰還/『あの日の海』

ちょっと長めの枕から始める。


ふだん全く見ない雑誌だが、niccoが載ったので、『MUSICA』を買う。
どんな雑誌かは知ってる。
つまり鹿野さんの雑誌でしょ?(笑)

他のページも一応、買ったからにはパラパラ見てみたのだけど。
まぁ、参考までに、って感じで。

で、最近ぼくは、ウチではほとんどコリーヌ・ベイリー・レイばかり聴いている。
そのアルバム・レビューもあったので、チェックしてみる。

…それにしても。
何で、こんなに少ない字数のレビューなんだろう?
たぶん、今年の洋楽では年間ベスト10クラスの傑作だと、ぼくは思うのだけど。
まぁ、それは雑誌の編集方針かもしれないから、おいておこう。
それに、この字数でよくまとめてある。

しかし。
決定的な間違いがあった。
音楽雑誌としては、これは気をつけて欲しいです。
というのは、「ブルーアイドソウル」と書いてるんですよ。
レコード・コレクターズ』や『ミュージック・マガジン』なら、絶対にないミスだろうな、こういうのは。

ブルーアイドソウル、というのは、直訳すると、青い目のソウル。
つまり、白人によるソウル。

60年代にヤング・ラスカルズ辺りがそう呼ばれたのが始まりかな。
ヴァン・モリスンとかもそうですね。
80年代には、ホール&オーツの大ヒットもあったけど、それと同時期にはホワイト・ソウルという呼び方もあったな。
ブロウ・モンキーズとか、日本で最も有名なところではスタイル・カウンシルとか。
ポスト・パンクからの流れでのブルーアイドソウルが大量発生して、それをホワイト・ソウル・ムーブメントと呼んだものでした。

もう一度書きますが、「白人」によるソウル、それがブルーアイドソウル、なのです。
コリーヌ・ベイリー・レイは、黒人です。
青い目ではありません。

レビューを書いてるのは、寺田宏幸さん。
このひと、niccoの記事も書いてるので、あまり厳しいことは言いたくない、心情的にはね。
同様に、雑誌そのものや編集長についても、心情的には、応援したい。
でも、気をつけて下さい。

もし、アメリカの雑誌が安室ちゃんを取り上げて、的確に褒めたレビューを載せて、にもかかわらず、その中で「コリアン・アイドル」とか書いてたらどう思います?
喩えるならば、そういうニュアンスなんですよ。


◆◆◆


さて、そのコリーヌ・ベイリー・レイである。


実は、ちゃんと聴くのは今回のセカンドが初めて。
名前と、どこかでちらっと聴いたような印象や雰囲気、それだけがあった。
まぁ、名前は聴いたら忘れないって類いですが。

ちょっとしたきっかけがあって、数曲聴いたところ、これはとんでもない、と思って早速タワーレコードへ。
以来、プレイヤーに入りっ放し。

ソウルとか、R&Bとか、そういう枠で語ってはいけないと思う。
音楽的には他にも、フォークやロック、あとファンクやブルーズといった、いろんな要素がクロスオーバーしている。
そのいずれにも収まらず、それらのミクスチャーという概念すら、飛び越えた音楽だ。
つまり、内容が形式を超えている。
ぼくは常にそういう音楽を聴きたいと願っているし、これはまさに《コリーヌ・ベイリー・レイの音楽》に他ならない。

『あの日の海』という邦題が付けられた、アルバム『THE SEA』。
様々な情報が、このセカンド・アルバムを覆っている。

ファーストの大成功の後、夫を亡くし、1年間何も出来なかった、という、そのまま再起できなくても不思議ではないヘヴィな出来事があった。
ぼくなら立ち直れないと思う。
また、アナログの機材とテープを使ったレコーディングである、ってこと。
演奏においても、ドラムスは全て生だし、徹底したアナログ。
そのレコーディングが行われたのは、ダンスホールを改装したスタジオ、ということ。

作品を覆う、そうした情報の薄皮を、一枚ずつ丁寧に剥いでゆく。
作品が生まれたときのレアな本質に近付いてみたいと思わせる、そんなアルバムだ。
ひとりのイギリス人女性シンガーソングライターが作り上げた、生々しく、美しい、ポジティヴな生命力に満ちた音楽。
ジャンルで音楽を捉えていると、この美しさを見逃すことになる。

ブラックミュージックという大きな括りすらも邪魔だ。
キャロル・キングや、ロン・セクススミス、
ノラ・ジョーンズや、あるいはカーディガンズ、それともエディ・リーダー
いっそラヴや、サンデイズ、カウボーイ・ジャンキーズ、
エヴリシング・バット・ザ・ガール、そしてジョニ・ミッチェルローラ・ニーロなどなど──、
時代も場所も違うけれど、いま挙げたようなミュージシャンにピンと来たひとは、とにかく一度、聴いてみて欲しいと思う。

そもそもジャンルなんてのは後付けの発想であって、初めて音楽に目覚めた頃はそんな聴き方なんてしない。
自分が好きなのはこういうジャンルなのか、って認識は、実は自己催眠だと思うのだ。

全ての現代を生きる音楽ファンに向けて開かれた作品、それがコリーヌ・ベイリー・レイの『あの日の海』だ。


アルバムの中盤、アナログ盤ならB面の頭にあたる辺り。
現代のポップ・ミュージックが辿り着いた、最も神聖で静謐な瞬間を、我々は聴くことができる。
“I Would Like To Call It Beauty”という曲。
一部を訳してみる。



天使のつぶやきみたいな溜め息をついて眠ったあなた
私たちは血まみれの足で明日へとダンスした
私は思った、ここで死ぬんだわ
だけどあなたが私を励ましてくれた
あなたが私を励ましてくれた
あなたが私を励ましてくれた

私はそれを、美しさと呼んでみたい──


一生分の祈りを閉じ込めたような数分間。
真剣に向き合うと、聴き手の心も一緒に閉じ込められてしまいそうな、ポップ・ミュージックの新たな聖地。

このアルバムがいちばん凄いのはしかし、この後だ。
コリーヌ・ベイリー・レイは、この聖地に閉じ込められた想いを、次の曲で世界中の都市の街路へと解き放つ。
“Paris Nights/New York Mornings”という、2010年代の真新しいスタンダードといえる、素晴らしい曲だ。
ついさっきまでの聖なる祈りを、俗なる路上で猥雑なビートに乗せて、貪欲な愛の歌に変えてゆく。

ジョニ・ミッチェルが“シャロンへの歌”で歌っていたことを思い出した。
「私たちは常に死に近いところにいるのかもしれない、でも私がいまいちばんしたいのは、彼氏を見つけたいってことよ!」

さっきぼくは、パートナーを亡くしたりしたら「ぼくなら立ち直れない」と書いたけれども、女性のしたたかな生命力には本当に学びたい。
“Paris Nights/New York Mornings”の歌詞も、一部、訳してみる。



私たちは愛に満ちた夜に飛び込んでゆく
(パリの夜、それからニューヨークの朝)
時流から外れるまで競走しましょう
(パリの夜、そしてニューヨークの朝)
あなたは私を高みへ連れてきてくれた
(パリの夜、ニューヨークの朝)
落っことさないでね
がっかりさせないで

(中略)

バンドが“シーズ・ノット・ゼア”を演奏する間、私たちは踊った
雨のヴォルテール通りでキスしてくれた
シルクの靴をダメにするためには、完璧なまでにすてきなやり方よね──


しなやかな生命力が弾ける。
この曲を聴くたびに、ぼくは「よし、生きていこう!」っていう気分になる。

どこかに、コリーヌ・ベイリー・レイの音楽を必要としている、まだ彼女を知らないひとがいると思う。
いわば潜在的なリスナーだが、もっと切実な意味で、いま、コリーヌ・ベイリー・レイを聴くことで救われるであろうひともいると思うのだ。

届いて欲しい、と願っている。
そのうちのひとりでも、この文章を目にするかもしれない。
判らないけれど。
でも可能性がないとは言えない。
その為だけに、この記事を書いた。


コリーヌ・ベイリー・レイのセカンド・アルバム、『あの日の海』(『THE SEA』)。
これは誰かの人生に寄り添う、天使のような音楽だ。

パリの夜、ニューヨークの朝──コリーヌ・ベイリー・レイの帰還/『あの日の海』

ちょっと長めの枕から始める。


ふだん全く見ない雑誌だが、niccoが載ったので、『MUSICA』を買う。
どんな雑誌かは知ってる。
つまり鹿野さんの雑誌でしょ?(笑)

他のページも一応、買ったからにはパラパラ見てみたのだけど。
まぁ、参考までに、って感じで。

で、最近ぼくは、ウチではほとんどコリーヌ・ベイリー・レイばかり聴いている。
そのアルバム・レビューもあったので、チェックしてみる。

…それにしても。
何で、こんなに少ない字数のレビューなんだろう?
たぶん、今年の洋楽では年間ベスト10クラスの傑作だと、ぼくは思うのだけど。
まぁ、それは雑誌の編集方針かもしれないから、おいておこう。
それに、この字数でよくまとめてある。

しかし。
決定的な間違いがあった。
音楽雑誌としては、これは気をつけて欲しいです。
というのは、「ブルーアイドソウル」と書いてるんですよ。
レコード・コレクターズ』や『ミュージック・マガジン』なら、絶対にないミスだろうな、こういうのは。

ブルーアイドソウル、というのは、直訳すると、青い目のソウル。
つまり、白人によるソウル。

60年代にヤング・ラスカルズ辺りがそう呼ばれたのが始まりかな。
ヴァン・モリスンとかもそうですね。
80年代には、ホール&オーツの大ヒットもあったけど、それと同時期にはホワイト・ソウルという呼び方もあったな。
ブロウ・モンキーズとか、日本で最も有名なところではスタイル・カウンシルとか。
ポスト・パンクからの流れでのブルーアイドソウルが大量発生して、それをホワイト・ソウル・ムーブメントと呼んだものでした。

もう一度書きますが、「白人」によるソウル、それがブルーアイドソウル、なのです。
コリーヌ・ベイリー・レイは、黒人です。
青い目ではありません。

レビューを書いてるのは、寺田宏幸さん。
このひと、niccoの記事も書いてるので、あまり厳しいことは言いたくない、心情的にはね。
同様に、雑誌そのものや編集長についても、心情的には、応援したい。
でも、気をつけて下さい。

もし、アメリカの雑誌が安室ちゃんを取り上げて、的確に褒めたレビューを載せて、にもかかわらず、その中で「コリアン・アイドル」とか書いてたらどう思います?
喩えるならば、そういうニュアンスなんですよ。


◆◆◆


さて、そのコリーヌ・ベイリー・レイである。


実は、ちゃんと聴くのは今回のセカンドが初めて。
名前と、どこかでちらっと聴いたような印象や雰囲気、それだけがあった。
まぁ、名前は聴いたら忘れないって類いですが。

ちょっとしたきっかけがあって、数曲聴いたところ、これはとんでもない、と思って早速タワーレコードへ。
以来、プレイヤーに入りっ放し。

ソウルとか、R&Bとか、そういう枠で語ってはいけないと思う。
音楽的には他にも、フォークやロック、あとファンクやブルーズといった、いろんな要素がクロスオーバーしている。
そのいずれにも収まらず、それらのミクスチャーという概念すら、飛び越えた音楽だ。
つまり、内容が形式を超えている。
ぼくは常にそういう音楽を聴きたいと願っているし、これはまさに《コリーヌ・ベイリー・レイの音楽》に他ならない。

『あの日の海』という邦題が付けられた、アルバム『THE SEA』。
様々な情報が、このセカンド・アルバムを覆っている。

ファーストの大成功の後、夫を亡くし、1年間何も出来なかった、という、そのまま再起できなくても不思議ではないヘヴィな出来事があった。
ぼくなら立ち直れないと思う。
また、アナログの機材とテープを使ったレコーディングである、ってこと。
演奏においても、ドラムスは全て生だし、徹底したアナログ。
そのレコーディングが行われたのは、ダンスホールを改装したスタジオ、ということ。

作品を覆う、そうした情報の薄皮を、一枚ずつ丁寧に剥いでゆく。
作品が生まれたときのレアな本質に近付いてみたいと思わせる、そんなアルバムだ。
ひとりのイギリス人女性シンガーソングライターが作り上げた、生々しく、美しい、ポジティヴな生命力に満ちた音楽。
ジャンルで音楽を捉えていると、この美しさを見逃すことになる。

ブラックミュージックという大きな括りすらも邪魔だ。
キャロル・キングや、ロン・セクススミス、
ノラ・ジョーンズや、あるいはカーディガンズ、それともエディ・リーダー
いっそラヴや、サンデイズ、カウボーイ・ジャンキーズ、
エヴリシング・バット・ザ・ガール、そしてジョニ・ミッチェルローラ・ニーロなどなど──、
時代も場所も違うけれど、いま挙げたようなミュージシャンにピンと来たひとは、とにかく一度、聴いてみて欲しいと思う。

そもそもジャンルなんてのは後付けの発想であって、初めて音楽に目覚めた頃はそんな聴き方なんてしない。
自分が好きなのはこういうジャンルなのか、って認識は、実は自己催眠だと思うのだ。

全ての現代を生きる音楽ファンに向けて開かれた作品、それがコリーヌ・ベイリー・レイの『あの日の海』だ。


アルバムの中盤、アナログ盤ならB面の頭にあたる辺り。
現代のポップ・ミュージックが辿り着いた、最も神聖で静謐な瞬間を、我々は聴くことができる。
“I Would Like To Call It Beauty”という曲。
一部を訳してみる。



天使のつぶやきみたいな溜め息をついて眠ったあなた
私たちは血まみれの足で明日へとダンスした
私は思った、ここで死ぬんだわ
だけどあなたが私を励ましてくれた
あなたが私を励ましてくれた
あなたが私を励ましてくれた

私はそれを、美しさと呼んでみたい──


一生分の祈りを閉じ込めたような数分間。
真剣に向き合うと、聴き手の心も一緒に閉じ込められてしまいそうな、ポップ・ミュージックの新たな聖地。

このアルバムがいちばん凄いのはしかし、この後だ。
コリーヌ・ベイリー・レイは、この聖地に閉じ込められた想いを、次の曲で世界中の都市の街路へと解き放つ。
“Paris Nights/New York Mornings”という、2010年代の真新しいスタンダードといえる、素晴らしい曲だ。
ついさっきまでの聖なる祈りを、俗なる路上で猥雑なビートに乗せて、貪欲な愛の歌に変えてゆく。

ジョニ・ミッチェルが“シャロンへの歌”で歌っていたことを思い出した。
「私たちは常に死に近いところにいるのかもしれない、でも私がいまいちばんしたいのは、彼氏を見つけたいってことよ!」

さっきぼくは、パートナーを亡くしたりしたら「ぼくなら立ち直れない」と書いたけれども、女性のしたたかな生命力には本当に学びたい。
“Paris Nights/New York Mornings”の歌詞も、一部、訳してみる。



私たちは愛に満ちた夜に飛び込んでゆく
(パリの夜、それからニューヨークの朝)
時流から外れるまで競走しましょう
(パリの夜、そしてニューヨークの朝)
あなたは私を高みへ連れてきてくれた
(パリの夜、ニューヨークの朝)
落っことさないでね
がっかりさせないで

(中略)

バンドが“シーズ・ノット・ゼア”を演奏する間、私たちは踊った
雨のヴォルテール通りでキスしてくれた
シルクの靴をダメにするためには、完璧なまでにすてきなやり方よね──


しなやかな生命力が弾ける。
この曲を聴くたびに、ぼくは「よし、生きていこう!」っていう気分になる。

どこかに、コリーヌ・ベイリー・レイの音楽を必要としている、まだ彼女を知らないひとがいると思う。
いわば潜在的なリスナーだが、もっと切実な意味で、いま、コリーヌ・ベイリー・レイを聴くことで救われるであろうひともいると思うのだ。

届いて欲しい、と願っている。
そのうちのひとりでも、この文章を目にするかもしれない。
判らないけれど。
でも可能性がないとは言えない。
その為だけに、この記事を書いた。


コリーヌ・ベイリー・レイのセカンド・アルバム、『あの日の海』(『THE SEA』)。
これは誰かの人生に寄り添う、天使のような音楽だ。